…読み返してまだ全然言葉足らずな気するけど、しゃあないか…。思いついたらまた書きます。
表現について世間の「これはいいのでは」「これはダメでしょ」って話題は気になります。思ったことをウェッブの片隅に残しておこうと思う。
最初に書くと、(私の観測範囲では)皆さん仰ってるように、「はあちゅうさんのセクハラ告発自体は勇気あるものだった。さぞかし悩んだだろう。応援する」というものです。無論、伊藤詩織さんやmetooで声を上げられた方々へも。
それと“童貞いじり”の話題はほんとに全く別問題で、私が自分と同じような意見しか注目してないんでしょうが、そういう認識でいたので、ハフポストの「あらさがし」呼ばわりは違和感あった。
セクハラ告発後、はあちゅうさんがさらに苦しんだ1週間 「人生で一番、心ない言葉を浴びました」
とはいえ、です。
はあちゅうさんの気持ちになると、すごい決意して告白して、心がヒリヒリしてる直後は、「ちゃんと問題を分けている」「真っ当な」コメントでも、ネガティブな一部ばかりが印象に残ったところはあるのかもしれないです。
おちついた頃に見返したらまた受け止め方が変わるのかもしれませんし、実際Twitterやらで、metooで声を上げたひとに対して本物の中傷をあびせる向きがないとも思えない、というのが正直なところです。
それでタイトルの件
なんですけれども。
私はあちゅうさんてよく存じ上げておらず、世間のいう「いじり」が何なのか把握してなかったんですが、
「はあちゅう」さんの童貞に関するツイートまとめ - Togetter
…あのですね、私これ、初見で嘲笑や侮蔑に読めてしまいます。早稲田などへの言及も合わせると、「レッテル貼りが楽しいひとなのかな?」って印象をつよく受けます。
そこで、おそらく、はあちゅうさんが仰りたいことって「自分の言及には愛がある」「リスペクトしてるんだ」ってことなんでしょう。こちらの動画でも似たようなことを仰っているかと思います。
はあちゅう「童貞をバカにしてる」に反論"オトナ童貞"徹底論争
しかしながら、レッテル貼りというのは、例えそれがポジティブなものであっても、それに属するひとにとっては窮屈に感じられることもすごくよくあると思う。
今回の件で一部の方が書かれてますが、言及を「処女」その他にしても同様です。ネガティブな“いじり”についてはもちろん反発があるでしょうし、ポジティブを期待されればされるほど、「そんなんじゃない」って思うひとも出てくる。
“勝手なレッテル貼り”って、わかりやすくなる一方で息苦しさを誘発するんだと思うんです。はあちゅうさんが「ことさら自分にだけ攻撃がきている」と感じられるのならば、私はたとえば当該動画で一緒にお話されている霜田さんにも同様の感想をもちました。“勝手なレッテルを重ねている”と。
他の“童貞コンテンツ”も、私は多くは「う~ん…」となるんじゃないんですかね。あまり近寄らないのでわからないです。映画『童貞。をプロデュース』も舞台騒動ありました。*1
土下座100時間:世界で一番やさしいゲロ - livedoor Blog(ブログ)
期待にしろ嘲笑にしろ、
重ねられつづけると、「もうこれ以上は我慢できない!」という向きが現れるのは当然かと思います。当事者の痛みについて目に入ってきたのはこのエントリでした。
はあちゅうを絶対に許すな - billword’s blog
読みながら、そうなのか、と心が痛んだ。このエントリはこのエントリで、勇気ある告白だったと思います。勇気づけられた人も多いのじゃないでしょうか。
はあちゅうさん霜田さんが、「『童貞』という言葉を使ってはいるが、話している内容は『中二病』のことだ」というならば、「中二病」という言葉を使うべきだったと思います。
私の感性では、中二病というのは完全な造語であり、イメージの産物であり、“童貞”とちがって実在の状態をしめす言葉ではないです。「中二病」という言葉が使われた文章を、実在の病名に置換したらとてつもなくおぞましいことになるのは想像つきます。
そんなわけで、実際の状態をしめす・存在をしめす語句へ、何かを重ねにかさねるのは、まあ反発も生むよな、と思うわけです。
ということを踏まえて、
なお、なのですが、私はメディアで言及されてるかぎりは「表現の自由」だと思います。
これも一部の方が口酸っぱく書いてますが、表現の自由/言論の自由は「国家がそれを保証するもの」であって、「批判されない権利」ではないです。はあちゅうさん界隈がこれからもこの言葉をこう使うんだ、とするならばそれで良いと思いますし、無論それに批判したい方はガンガンに批判したらいいと思う。
…表現についての炎上が起こるたびにいつも思うんですが、「たぶん自分はそういうやり方はしない」としか言えないんですよね。大事なのは「自分は加担しない」、あるいは自分はあたたかい声のかけ方を考える、などという姿勢なのではなかろうか…。
「おっぱい」が気にいらないなら、ミュート、アンフォロー、ブロックがおすすめです。「は~真面目なこと書いちゃった。おっぱい」みたいな書き方するひととかおもしろいですかね。
一方で、メディアでの扱いは「あ、それやっていいんだ」という空気を醸成するものでもあると思います。
話がそれた。表現上の問題として私が問いたいのは、
「はあちゅうさんはそれで良いんですか?」ってことです。
上に貼った『チェリー』内動画で仰ってましたが、「自分は本当は“こじれて”いるんだ」と。自分には気の弱いところがある、という類いのことを仰ってたかと思います。そりゃ誰しもそうです。全然おかしいことじゃないんですが、
はあちゅうさんがそれを自称するならば、「愛すべき彼ら」に対して、嘲笑や誹謗ともとれるようなセリフをばらまくより、他に切り口のちがう活動があるんじゃないかと思うんです。
私はこれまではあちゅうさんをよく存じ上げなかったんですけれども、そんなに影響力があるのであれば、当事者にとって良い方向に活かしてはどうかと思うんです。対象を嘲笑していいような空気を醸成するのでなく。
こんな匿名ダイアリーをみつけたんですが、
そうそう 結局自分の未熟な部分を属性として切り分けるときに、同じく未熟..
これは確かに、と思いました。自身の弱いところを仮託するのへ使われては、当の方々は納得いかない気分になるのではないでしょうか。
そうではなく、わかりませんが、私ははあちゅうさんは心優しい面があると思うんです。
心優しい人間が心優しいようにふるまって何がわるいのか。
このへん、彼女の過去記事をちょろちょろ見ると「強気であらねばならない」というような側面も感じて、それが期待によってそうせざるを得ないふるまいだったのか、むしろそちらが本質なのか、今の私にはわからないです。
「本当は自分はそんな人間じゃないんだ」
って言う方、たまにいらっしゃいますね。
私からすると、んじゃあ本当の自分とやらを出したらいいじゃんか、誰が止めるんだよって思うんですけど。それを他人が支持するかどうかは他人の判断です。
大抵は誰しも、好ましい側面とそうでない側面がある。「このひとは、こういう面ではアレだけど、こういう面の良さは上回るな」などと、Twitterでもフォローするかしないか決めてます。“アレ”が上回ってきたらアンフォローしたり。ほとんどのひとがそうなのじゃないか。
評価のされ方が同じなら、無理のない方向でやってったほうがいいんじゃないかと思うんですけどね。
いいかげん長くなったんで最後に大事なこと、
私、metooって、性被害のなかでもとくに仕事での立場を利用した圧力や“いじり”、被害について声を上げるものだと思ってるんですが、その範囲で言うならば、そこそこ長らく仕事してきて、私自身は遭ったことがないです。
遭う必要のないものです。
なので、もしそういう目に遭っていて「何かおかしいのじゃないか」と思われましたら、その感覚は間違ってないってこと言いたい。
正面から「やめろ」と言っていいんだし、言えなければ専門窓口に相談するのもそうだし。
他にも友人や同僚・先輩に「それはおかしい」って思ってる人がきっといると思うので、一度相談すると良いと思います。なかには“空気”を読まず「何やってんすか」と遠慮なく咎め、行為をやめさせられる人がいるかもしれない。
また、相談されたときにはそうあるひとが増えてほしい。私も心がけようと思います。
厚労省は職場内セクハラについて指針出してます。対策は義務だそうです。
…てかね、私なぞ逆に心が弱いのか、すぐ「ひとに言う」んですよね。おかしいな、と思うと「これどういうことなんですかね?」とか、すぐひとに喋る。行政の窓口があったら、検索しまくってすぐ報告もする。そういうのがにじみ出てるがゆえに遭遇してないのかもしれないです。