「自粛」という言葉は、当然のことながら「やれる体制はあるんだけど…」という意味なのだと思う。
「ほんとは出来るんだけど…」と言われると、こっちも「ああ、そうなんだ…」となる。
こだまでしょうか、と例の詩人も云っている。
そして案外、この「…」の部分が積み重なると、全体的に元気がなくなってくのではないかと思う。
不可能なら不可能だといったほうがいいのではないか。「不可能」という言葉は強いので、
「諸事情により、開催不可能です!」
といわれれば、聞いてるこっちも「諸事情め…!!」と燃え上がることができる。諸事情は説明してもいいし、各々妄想してもよい。 燃え上がるということが大事。
いわき在住の絵師さんと連絡が取れた。やっぱりすごい吹っ切れた感じだった。生き残れたその後「酷い目ついたけど今後景気は上向くだろう」と思ったのにいつまでたっても東京圏住民の気持が沈んだままなので当惑しているとのこと。
そういう人が少しでもいるのなら、首都圏はだから、強気に出たほうがいいのではないか。
自粛という言葉はどっちにしろ煮え切らない。
雑誌が配本困難のためweb公開するみたいなニュースもあったけど、「困難」という言葉もどうなのか。
お姫様であるところのお客さんにしてみたら、「困難」といわれると、「なによッ、それを乗り越えて来てくれるのがナイトじゃないのッ!」という感じがする。 困惑して、ひたすら難しい難しいと唸っている印象がする。頼りない。
いっそのこと、「配本不可能!」と言い切ってみたらどうか。実際、不可能なのだろうし。
「不可能」ならば、とにもかくにも「不可能」なので、ようするにどうしようもない印象になるのと、
片方だけでなく、両方が問題として認識できるようになる気がする。
不可能とまで言われてしまえば、お姫様も「野郎!!」と、スカートの裾をたくし上げて、自ら脱出をはかろうという気分になるのではないか。 また、不可能だったのでweb配信にしました、と言えば、「不可能だったのに打開策を見つけた俺達」感も含ませることができる。
まあ、そのへんは冗談としても、「不可能と言われると逆にやる気になる」人も、そもそも、少ないのかもしれない。けれど、針が振り切ったほうがやる気が出るみたいな人は確かにいて、世の中を動かしていくのは大抵彼らであるとも思う。 どうせなら、互いにテンションを上げて、そちらにBETしたほうが良いのではないか。
私はいわき市の声があってもなくても、「不可能」以外の「自粛」は意味がないと考える。
球を衝かなければ、ゲームは始まらない。ゲームが始まらなければ、澱んだ時間はただ過ぎていくだけのものになる。
針の先ほどの光でも、覆ってしまうよりは随分ましだろうと思う。